ドイツ語・辞典・ドイツ人

自著自讃(「ぶっくれっと」1997.7 no.125より)

 クラウン独和辞典

ドイツ統一と言葉の変化

飯嶋

『クラウン独和辞典』第2版が完成しまして、今日は編修主幹の濱川先生を囲んで大いに語り合おうということになったわけですが、まずドイツ統一、ベルリンの壁の崩壊が一九八九年十一月、一年足らず経った九〇年十月三日が正式にドイツの統一ということになります。その一年後でしたか、『クラウン独和』初版は。

濱川

半年後です。

新田

初版がドイツ統一直後で、この第2版が正書法改革直前と、ドイツの社会的変動とピタリとタイミングが合っていますね。

飯嶋

そうですね。初版のときに、東西ドイツの統一というものを、後追いのような形ですけど、多少盛り込んだわけです。それから六、七年が経っておりますが、その流れの中で、旧東西ドイツの言語状況というものも徐々に変化し、ようやくにして統一による言語的影響というものも定着しつつある。

一方において、一時期あった言葉、流行語のようなものですね、たとえばMauerspecht(ベルリンの壁崩壊時、キツツキのように壁を壊して持ち去ったり売ったりした連中)なんか淘汰されていく。この語は第2版では収録しましたが、ことによるとだんだん死語になっていくかもしれない。そういうダイナミズムの中で言葉は変化しています。あるいは、従来ですと東西ドイツの言葉の違いなんていうものが話題に上ったわけで、統一されたドイツでも、そういう東西格差、東西の相違みたいのがあるのかという、そのあたりからお話合いいただきましょうか。

信岡

統一前に東ドイツを訪れたとき、あちらでついうっかり、Zone([東ドイツ]ソ連軍占領地域)とかOstdeutschland(東ドイツ)とか口にすると、先方から異常なほどの反発を食らったんです。DDRと言え、と。だけど西の人は、BRDはふつうあまり使わない。同じ言葉でも、意識の上で微妙な違いがあった。ただ、そうしたニュアンスは辞書には現れないと思うんです。あるいは、現れにくい。それから、ドイツ統一後明らかになった東ドイツの仕組みの言葉とか、統一後生まれた言葉もあります。Ossi(旧東ドイツの人間)とかWessi(旧西ドイツの人間)とか、もちろん第2版には入れましたが、これなど統一以前の辞書にはなかった言葉です。

飯嶋

東西の問題といっても、非常に多様な側面をはらんでいるということですね。旧東ドイツの制度名も、制度がなくなったからといって話題に出なくなることはないわけで、歴史的な価値ということもあり、見出し語としては残っている。あの統一直後の、熱狂した時期に使われた用語は、どの程度盛り込まれたんでしょうか。

新田

一時abwickeln([旧東ドイツの大学などの諸機関を解体し]精算する)というのがよく話題になりましたね。さっきそれを調べてみたんですけど、普通の一般的な単語としてだけ載っていて、そういう時代的な状況の意味は辞書に記述されていません。それは辞書の役割じゃない、というところもありますが。

濱川

さっきのMauerspechtに似たようなものでいえば、たとえばWendehalsというのがある。これは初版にはなかったと思うんですけれど、第2版では、二番目の意味として「[利益のために信念を変える、特にドイツ再統一の前後に発生した]変節漢」とあります。これなんか、第3版では消えるかもしれませんね。

飯嶋

福本先生は、私たちの中で一番最近までドイツにおられたことになりますが、最新の言葉だったものがすでに忘却の彼方に行ってしまったというような、そんな言語変化で気づかれたところはありますか。

福本

特にこれというのはないですけどね。一年前に帰ってきたんですが、本当にどんどん進んで、時代の変化が早いというのが実感です。

飯嶋

統一以後の大きな変化となりますと、人為的なものですけど、正書法の改革が最近の大きなものだと思います。この正書法に関しては、濱川先生が今度の『クラウン独和』で非常に丁寧な解説を書いてくださっています。正書法改革の骨子みたいなものを簡単にお話しいただけますでしょうか。

 

正書法の問題

 濱川

現在の正書法が、非常に習得しにくいものであるということですね。小学校に入って正式に国語を習う生徒と、教える側の先生が大変困るような複雑な規則だと前々から言われていたのです。それで、毎年のように改革の案が出ていたのですが、一長一短でなかなかまとまらなかった。それがこの二年ぐらいで、どういう動機か知りませんけれど、急にまとまるようになって、そしてスイスとオーストリーはすぐに承諾した。ところが、肝心のドイツのほうでゴテゴテして、未だにもめています。まあ、正式には来年から始めて、七年間を猶予期間とし、二〇〇五年の八月一日から新方式に移行するということになっているのですが、新聞などを見ると、まだゴテついているようですね。

出版社の中にも、「撤回しろ」とか、「考え直せ」という反対意見、これはもともとあったわけですけれども、これが出ている一方、直接利害関係がある出版社、たとえば教科書、児童書の出版社はすぐ移行しないと、学校では大部分の州ですでに新方式による授業が始まっているわけで、新正書法による本をどんどん出版しているらしい。ところが、文学書出版社のほうは、著者の中には承知しないのがいるし、膨大な在庫を抱えているわけで、われわれとしても、どうなるかちょっと見当がつきません。私はまあ、決定した以上、新正書法が多少は手直しされても施行されていくのではないかと思っています。

実はわれわれも、大迷惑を被ったわけです。本当は去年の春に第2版を出すはずだったのが、この問題でドイツがグズグズしてなかなか決まらないものですから、われわれもさんざん鳩首協議、何回も議論を重ねた。とにかく一年延ばして様子をみようとしているうちに一応の成案が出た。そこで今度は、それにどう対応するかということになりましたが、猶予期間が七年も八年もある。ということは、今の時点で全面的に新正書法にのっとった辞書を作るわけにもいかない。そこで、一応、表記は旧正書法とし、改正の経緯についても、改正への対応についても解説をつける、さらに現行正書法と新正書法による表記の主なものを対応させたインデックスをつける。こういう、われわれとしては現時点でギリギリのところをやったわけです。

これが世間でどう評価されるかは今後を待たなくてはいけないわけですが、少なくともわれわれが知る限り、そして現在までに出た独和辞典に関する限り、われわれの辞書が一番素早く対応しているということは言えると思います。

新田

旧正書法を習得した大人、あるいは出版社などはあまり新しいものに移行するのは大変だから、いろいろ文句があるとは思うんです。でも、教える側の立場に立ってみれば、やっぱり変わるんだから新しいものを教えなければいけないと、実際どこの学校でも期限前からどんどん新しい正書法を教え始めているわけです。そうすると、なにもわざわざ古いのを教える必然性もないわけで、どうしても新しいものを教えなくてはいけなくなってしまう。それがごく自然だろうと思うんです。だから、われわれの辞書も文学作品とは違うわけで、新しくドイツ語を学ぶ人のために作るんですから、いつまでも旧正書法にこだわっているわけにはいかない。今回少しでも対応したということは、それなりに社会的な意味があると思いますね。

信岡

私なんか、この『クラウン独和』第2版の対応は非常によかったと思いますよ。現時点では、適切な対応の仕方です。実際は九八年、来年からの実施なんですけど、でもゲーテ・インスティトゥートで使っている「Themen」などの教科書や、新版のブロックハウス百科事典が新正書法になっている。たしかに作家とか、旧世代の人は反対するだろうと思います、また反対の根拠はあると思うんですけど、現実の事態は新正書法にどんどん移行していくと思います。

福本

この一〇年ぐらいは混乱した併用の時期がずっと続くと思いますね。今度ちょっとドイツへ行って気がついたんですけど、やっぱり短い母音の後にssと書くと、最後の語末でね、それはチラチラ見かけるようになりました。ですから新正書法はもう始まっている。ただ、不思議なんですけど、ぼくがドイツにいた一九九五年の九月十月ぐらいですか、そのころ正書法改革ということで全国文部省会議をやって、一回棚上げして、十二月に決めるということでやりましたよね。あのときの新聞報道はほんの少しで、テレビではほとんど取り上げなかったんです。取り上げたところもあったんですが、それはなんか、からかっているような感じでいたんですね。今になっていろんな批判が出てきているけれど、これがなぜ今ごろ出てきたか分からない。

信岡

訴えを起こした大学教授がいましたね。
 

正書法改正の功罪
 

飯嶋

でも大勢としては、もう長いものにまかれちゃうような状況になってますね。

福本

そうなんです。すでに言われているように、前から反対しなかったということは、ある程度認めていた部分もあるわけです。最後の土壇場になって騒ぎを起こした感じ、これは収束するしかないという状況ですよね。

新田

子供たちが新正書法で育っていくわけだから、それを引き戻すことはできない。

飯嶋

おそらく今反対している人たちは、この改革案が成立するとは思っていなかった。(笑)高をくくっていたところもあるんじゃないですか。フランスでも正書法改革は頓挫していますし、いろんなところで世間の反発が強い。ドイツでも、今まで何度も失敗しているし、今度もまずダメだろうと高をくくっていた部分があるんじゃないかと思うんです。

濱川

新正書法が決まってから、新聞や雑誌に出る賛成論、反対論を読むと、私などの立場からいうと、両方とも理由があるのです。われわれ編修委員の中でもいろいろ意見があって、新田さんなんかむしろ推進派でしょうね。

福本

ただ、改革といっても意外と少ないんですね。新正書法で書かれたものを実際に見てみると、そんなに大きな変化はないというか、気がつかない。

信岡

一番目立つのはβのssへの書き換えで、特に接続詞のdassです。それから分離動詞の例をあげるとき気をつけなくてはいけない。また不定詞句で、コンマを打たないでしょ。ところがあれ、コンマを取っちゃうと読みにくいんですね。コンマだけは打ったほうがいいと思うな。

新田

もう一つ、大文字書きがあります。熟語の中でも、元の名詞だったものはやっぱり名詞として大文字にするという。

福本

ですから、この辞書を謹呈した相手から葉書をもらったんですが、非常に不安だと、新正書法を大学でどう教えていいのか困っているということを書いてくるんです。だけど、ちょっと心配しすぎているところが、われわれドイツ語教師の側にもあると思うんですね。あまり見ないものですし、新正書法に関するものを読んでみると確かに複雑です。ややこしい。外来語がいっぱい出てきますね。すごく難しい感じがするんですけど、ただ実際は、だいたい外来語なんてそんなにしょっちゅう出てくるものではない。意外と少ないんですよ。

それに、改正でいい部分はいくつかある。たとえばぼくが絶対いいと思うのはckkkとしないでckのままとする、あれは間違いなくいいですね。それが使えてそれほど大きな変更がないというんだったら、これはいいんじゃないかと思うんです。

新田

規則を単純化するということはいいですね。さっき濱川先生が、ぼくは推進派じゃないかっておっしゃったことで一つ付け加えておきますと、つまり濱川先生も前に書かれたことですが、正書法は面倒くさくてよく分からない、教師が苦労するところだと一般に言われてるんですけど、それはドイツ語に限ったことじゃないわけです。つまり正書法というのは、本来話し言葉であるものを書き言葉で表そうとすると、両者はかなり違うものなので、うまく表記できない。そういう意味で、話し言葉を書き言葉に移す際の規則というのはちょっと無理があるんですね。

また言葉というのはどんどん変わっていくものだから、歴史的な書き方が残ったりする、これも実際の話し言葉と違ったものになる。でもそれは、ドイツ語だけではなくて、英語でもフランス語でもそういうことがあるわけです。他の言語と比べればドイツ語の正書法は、ローマ字どおりに書いたり発音すればいいというふうに言われているわけで、きわめて簡潔です。もちろん相対的な問題ですけれど。

 

ドイツ語は民主的言語
 

新田

これは逆に英語なんか、歴史的な正書法をたくさん残しているし、外来語がたくさんあるから、それの表記が違ってくる。英語こそ改革に手がつけられない、だから今までやらないで、そのままにしているわけです。手遅れなんですね。ドイツ語の場合、正書法が他の言語に比べて複雑だから、こういう議論がうるさいということではない、改革しようと思えばできるところがあるからです。ドイツ語の正書法がやさしいから、かえってみんなが手をつけようとする。

福本

全くその通りです。ぼくも最初の授業のときにドイツ語の正書法、綴り方というのは英語と比べてこんなに簡単なんだ、というわけです。それは、現行の表記でもすでにそうなので、他の言語に比べて対応関係がはっきりしている、非常に合理的なシステムなんだということを学生に教えるわけです。現行のシステムがかなり合理的だからこそ、その欠陥が目立つ。それで手をつけたくなるんですね。たしかに欠陥はあるわけですから。

新田

解消できない欠陥なんですよ。音声言語を別の規則体系である文字言語に直すということによって生じてくる問題だから、解消できない。永遠に解決できない。

福本

だから、規則的に、たぶん七〇パーセントぐらいはカバーできると思うけど、それを七五パーセントにするとか、そういったものだと思うんです。

新田

純粋に表音的にしたらいいかというと、ハングルのような表音的な文字体系であっても、話し言葉そのものは変わっていくから、やっぱり実際の発音とハングルとは、ずれてくる。

信岡

これは五〇年たったら、また。

福本

また問題になります。

新田

ドイツ人は真面目だから、改革なんて律儀にやってますが、放っておけばいいんですね。綴りと音とは全然別のもので、綴りは理屈もなくそういうふうなものとして覚えざるをえない。漢字みたいなものだ。英語の正書法なんかまさに漢字です。実際、発音とかけ離れている。

福本

ただ、ドイツ人というのは、言葉に対する思い入れが強いですね。ドイツ語という言葉に対する愛着心がある。これは他の言葉を話している人も同じと言えるかもしれませんが、ぼくの見るところ、ドイツ人はそれ以上にこだわっているところがある。それで、こういう議論も出てくるんじゃないか。まあ、英語の改革となったら世界中でやらなくちゃいけないから、できないのは当り前で、ドイツ語だからこそできるという面もあるわけですが。

新田

しかも、それは社会言語学的にいうと、すごく民主主義的なところがあるんじゃないかな。つまり、英語のような綴りは、ある程度教養を積まないと、訓練しないとできない。できなければ差別される、綴りもできないような教養のない人間と見られます。それがドイツ語の場合は比較的やさしいから、比較的多くの人が学びやすいということになっている。

福本

この改革の発想も、まず子供の教育がありますね。教育的、啓蒙的ととらえている。

濱川

たしかに、福本さんや新田さんのおっしゃるのは一つの理屈で通るとは思います。ただ、今度の正書法改革案を作った人たちが強調しておりますが、新正書法に限らず、前の正書法でも、正書法というのは決して法律ではない。正書法ができなくて綴りを間違えたといっても、それは知能が劣っている証拠だとか、大学進学に影響するとか、そういう恐怖観念をドイツの子供たち、両親たちがもっているのは間違いだ。正書法を間違えたって構わない。それで知能程度が云々されてはいけない。

新田

そうですね、規則の運用が大事ということですね。しかし、そういうことを強調しなくてはならないということは、逆に正書法ができるできないによる差別が現実にあるということではないでしょうか。

飯嶋

まあ、理想的な正書法の実現はありえないわけなんですが、それに少しでも近づけようということを長いことやっている。他方で、言葉に対する思い入れというのがとても強いから、大幅な改革というのは強引にやりにくいということで、それが結果的に、この規模の改革につながったということではないかと思います。

濱川

そうですね。

 

辞書編集はオーケストラ
 

飯嶋

最近の独和辞典、といってもわれわれの『クラウン独和』が今のところ一番新しいわけですが、最近の辞書の傾向みたいなお話が出てきますでしょうか。

信岡

新しい独和辞典が、私に言わせれば過剰なほどたくさん出ています、この数年の間に。ドイツ語の履修者数というのは減少傾向なのに、それとの対比からみて出すぎるぐらい出ています。本が過剰なのは独和辞典だけじゃないかもしれませんけど、今まであるひとつの独和辞典が市場をほぼ独占していたのに比べますと、ずいぶん変わったなという感じがします。それから、さっきの正書法も絡みますけど、独和辞典の寿命が短くなったということが言えるんじゃないでしょうか。以前は作ったら一〇年二〇年は大丈夫だった、それが今はもう作って五年ともたない。

濱川

それには印刷技術の進歩ということも絡んでいるのではないでしょうか。訂正が簡単にできる。昔は大変でしたものね。

信岡

それはありますね。だからそういっては申し訳ないですけど、他社の新しい独和辞典を見ましても、必ずしも最近の情報が入っているわけではない。相変らず昔の記述を、制度が変わっているのにそのまま載せているというのがあります。たとえばDBは相変らず「ドイツ連邦鉄道」だ。九四年に民営化されているのに。

濱川

それと直接関係はないんですけれど、私が『クラウン独和』で一番いいと思っているところは、個々の内容もありますけれど、辞書というのは要するに、出版社と印刷会社と編集陣と、この三者の共同作業がうまくいかないと、いい辞書ができないんですね。その点、われわれの辞書の場合、編集部もよくやってくださったし、印刷所もずいぶん無理も聞いて頑張ってくれた。それから、われわれ一四人の編修委員の共同作業が非常にうまくいったと思う。自由に意見を出し合ったり、場合によっては区割りして分担を決めたりしましたが、皆さんお忙しいなか、ちゃんとやってくださった。雰囲気が非常に良かったと思っています。そのおかげで、やっぱり一四人の最新情報が自由に流れ込んでいるから、むろんまだまだ完全ではありませんが、比較的最近の情報まで入った、いい辞書ができたと私は思っています。これはわれわれの辞書が誇っていい点ですね。

信岡

最近の情報をいいますと、「クローン」もちゃんと入ってます。「狂牛病」、これは私が意識して入れた。「マネーローンダリング」とか、欧州通貨単位の「ユーロ」とか、そういう言葉が入った独和辞典はまだないんですね。今、濱川さんがおっしゃったことに関連して、これは『クラウン独和』の特色にも通じていくかもしれませんけど、辞書の編集というのは、昔は個人的な色彩が強かったんですけど、今はもう共同作業ですね。その場合、よくオーケストラにたとえて、指揮者(それが濱川先生なんですけど)がいて、それで団員がみんな演奏するわけですが、指揮者は細かいところまで弾き方、吹き方についていちいち干渉するわけではないんです。みんな各自のもてる力を自分なりに発揮して、それでいて全体としては渾然一体となっていい音色が出ている。『クラウン独和』を見ますと、非常にそれを感じるんですよ。濱川さんが、いちいち「ここはこうしろ、ああしろ」って言ったわけではなくて、皆さん自由に自分の力を発揮して、それでいてまとまった辞書ができるというのは、これは濱川さんの人徳であり、素晴しいことだと思う。それに加えて、辞書づくりの技法、印刷とか組版とかレイアウトとか、そういう伝統的なものがうまくマッチして出来上がった辞書だとぼくは思っています。まあ、ここまで言ってもまだ半分も自画自讃していませんが。(笑)

新田

毎月一回、編修会議をやってきたことが大きいと思いますね。みんなかなり自由に原稿を書くけれども、そこでいろいろ意見交換、情報交換をする。

信岡

校正刷りが回ってくると、誰が書いた原稿であろうと遠慮なく直す。それが二度目に回ってきたら、また直してもいい。これが濱川さんの方針ですね。

飯嶋

なかなか、こういう体制は少ないでしょうね。聞くところによると、執筆者同士、顔も知らないような辞書もあるとのこと、『クラウン独和』の場合は、一四人の編修委員の総力が結集された辞書と言えますね。

 

適切な語数と使いやすさと
 

飯嶋

第2版の特色ということに話が移ってきましたが、この辞書は決して大辞典ではないんですが、今度六〇〇〇語の新語を加えて語数が五万八〇〇〇語になりました。新語に関しては相当充実していると思うんです。たとえば大辞典に入っていないような、生きのいい単語がいろいろ入ってます。いわゆる時事用語じゃないものも、非常に新しい感性で現代の口語とか俗語とか、そういう観点から見出し語の選択がなされている。そこらへんに関してどうでしょうか。

福本

新語に関しては、編修委員がみんな、自分で採取するような形でコツコツ集めて、それを持ち寄って選択していくというやり方をとりました。それがよかったと思いますね。単にどこかの辞書のものを真似するのではなく、本当にみんなが新聞とか日常ドイツで目にするような単語を集めて、それを入れていった。

新田

前に、基本語と常用語について議論をしましたね。大事なのは、ドイツ語の中核になっている基礎語彙的なものはもちろんだけど、そうではなくて、日常的によく使われるような語彙も大事なんだということです。たとえば、コンピュータ関係の語彙とか、この辞書は発信型という方針をもっているんですけど、そういう意味で重要になる語彙ですね。

飯嶋

あと、語数に関してはどうでしょう。最近の辞書では四万語とか三万語というのが出ていますが、私の感じでは四万語と五万語の間には非常に大きな開きがあるんじゃないかと思うんです。

濱川

これは難しい問題ですね。意見が分かれるところだと思います。私自身は、そんなにたくさんの語彙は必要ないという主義なんですよ。編集部からは叱られるのですが、語彙の多いのに越したことはないけれども、制約はあるわけですし、それから、どんなに語彙を集めたところで、われわれが読んだり聞いたりする単語全部を収録できるわけはありませんからね。まあ、それを五万にするか六万にするか、四万か。これは議論のあるところでしょう。私は、この『クラウン独和』程度のハンディな形ですと、これくらいが限度だと思う。片手で持てるわけですから。これをもう一つ拡大して大辞書にするのでない限り、この範囲でやっていかなくてはいけない。そうすると自ずから限られてくる。

福本

五万八〇〇〇語というのは、ぼくはこれで十分だと思います。前の版の五万ちょっとは、使っていてやや足りないという印象がありました。今度六〇〇〇語増えたというのは大きいですよ。これで九八パーセントはカバーできると思う。

飯嶋

語数というのは確かに大事で、初心者ほど、本当は語数の多い辞書が必要なんですね。つまり、複合語など自分で組み立てられないということがある。だから、今はやりの初心者向けの、とても語数の少ない辞書というのは、そういう意味で問題があるのではないか。それは単語集としては価値があるかもしれませんが。

新田

一人の人間のもっている語彙というのは、そんなにたくさんあるわけはないですね。一〇万語とか二〇万とかいうのはいろんな人の語彙を集めているからで、一人の人間がもっている語彙はそんなにない。それでふだん自分の言いたいことを表現しているわけです。発信型ということを考えれば、自分の言いたいことが言える、表現したいことが表現できる、ということであれば五万で十分ですね。

信岡

日常使ったり、読んだり書いたりする言葉ということでいえば、一万もいらないでしょう。数千語でいいかもしれない。だけど辞書というのは、ふだんなじみのない語に接したとき引いたら分かるという、そういう機能が必要です。だからそこの兼ね合いで、ふだん使わない言葉はいらないんじゃないかっていう意見は、辞書の場合は通らないと思うんですよ。そもそも初級者から専門家に至るまで使えるという要求自体が無理なんですね。だからまあ、そこは売れ行きだとか、大きさだとか、そういったことが加味されてくるわけです。私も濱川さんと同じ意見で、この辞書は大きさはこれがもう限度だと思います。これだとまだ、片手の手の平にのせて引けますからね。

飯嶋

日本の、この規模の辞書の中にいっぱい詰め込む技術も、ほとんどこれが限界だということですね。

 

現代ドイツ語学生気質
 

飯嶋

最近の大学での外国語教育、また学生気質といったところで何かお話しいただければ。

福本

これはわれわれにとって一番大きな問題で、ドイツ語学習者がかなり減っているわけですね。事実、われわれの大学では一年生と二年生で、二年生のほうが選択制になって、履修してもしなくてもいいということなんですけど、そうするとどれだけクラスが維持できるかということで、蓋を開けてみると、一クラス一〇人くらいなんです。これは逆に、一〇人でやるんだから、かなりいい授業ができるという見方もできる。実際、そういう面もあるわけですけど、やはり寂しい面もあることは事実です。

新田

学生が減るし、授業時間が減りますね。これは大きい。一週間に何回できるか。そうすると、やっぱり文法にしろ日常会話にしろ、訓練が足りないから力が落ちちゃうんです。それを補うという意味では、辞書をよく引いてくれれば、単に単語の意味とか例文だけじゃなくて、使い方まで出ているし、文法事典もちゃんとついてるし、動詞変化表もついているし、だから辞書にはすべての情報が入っているんです。辞書を読むという習慣を学生がもってくれたら、授業時間数が少なくなったということを少しは補えるんじゃないかと思う。これは教える立場として、口を酸っぱくして言わなくてはいけないと思うんです。

信岡

一〇年ほど前までは、ドイツ語を教える場合に学生の英語の知識を利用して教えていたんです。英語でこういうところがドイツ語ではこうなんだと、つまり英文法との比較でドイツ語の文法を教えていたんですね。それはそれなりに彼らにとっても分かりやすかったと思うんだけど、このごろ、それができなくなりました。つまり、英語の文法知識が非常に脆弱なんです。これは、英語の教え方が少し変わってきたのかなという気がする。

新田

文法的な分析とか、やってないんでしょうね。

信岡

やらないんでしょうね。中学校・高校で文法体系にのっとった教え方をもうやらないんじゃないかと思うんです。会話を主にするとか、日常英語を主にするということになってるんじゃないでしょうか。私なんかが習った英語の文法用語も少し変わってるんじゃないかという気がしますね。英語自体が変わったとは思いたくないんですけど。

新田

大学で外国語をやることの意味というのは、コミュニカティヴな語学学習もそれはそれで大事ですが、でもやっぱりある程度意識的に外国語を分析的に見ると、そういう教育も行われるべきだと思うんです。それがすごく少ないんですね。

福本

だから、文法の授業をわれわれやりますね。文法の授業と講読の授業と分けていますが,ぼくは語学の人間だから、文法に非常に力を入れるんですけど、学生はどうも嫌がってる感じがありますね。前はそんなことでもなかったと思うんですが、今おっしゃったような傾向で、あまり文法を好まない学生が増えてきている。敬遠するということが多いですね。

ただ一年間ですね、ドイツ語を自主的にやるというのは。二年間やる学生もいるけれど、一年間で言葉を教えようとしたら、体系的に教えるしかないわけですよ。言葉を分析した上で教えていくしかない。これは文法というものと結びついていくわけです。これを難しくやるか、あるいは分かりやすくやるか、技術上問題はありますけど、それはどうしても外せない。だからそこらへんが、ちょっとやりにくくなってきた。大学の授業として、ちょっと辛いかなと。

信岡

入試の得点からみると、入ってくる学生は英語はできるはずなんだけど、大学に入ると、受験勉強時代のいやなことを忘れようというのか、とにかく何一つ受け付けようとしない学生が多い。それはドイツ語だけじゃなくて、英語も同じです。

飯嶋

せっかく習った受験英語を活用しないというのは、非常にもったいないと思うんですけどね。

信岡

だから大学に受かった時点で外国語は終わり。

福本

それこそ本当の受験英語だな。(笑)

信岡

でも、実用会話を大学でやるということについて、私なんか旧世代だからちょっと抵抗があるんですね。そんなものは町の会話学校に行って習えばいいんだっていう意識がどうしてもある。

飯嶋

だけど、学生はそっちも求めています。

 

ドイツ語復権のために
 

新田

実用会話も大学でやればいいんですよ。ただ、さっき福本さんが文法を体系的に教えているというお話で、ぼくもそういうふうに教えているわけですけれど、文法というのは胡散臭く思われちゃうわけです。文法やったって実際には役に立たない、なんて言われる。でもぼくの教える文法っていうのは、別にしゃべれるようになるとか、読めるようになるための基礎を教えるとかいうものではなくて、言葉に対して、ドイツ語に対して興味を持つようにしたいと、そういうつもりでやってるんですけど、そこらへんがなかなか理解してもらえない。ぼくの独りよがりかもしれませんけれども。

飯嶋

言葉を通して、新しいものの見方を獲得するというようなことですね。どうも今の学生は手っとり早く話せるようになりたいとか、だから外国人と付き合ったりするのも、われわれよりむしろ学生のほうが積極的だったりして、まあそれはそれでいいことだと思うんですけど。あと、文法嫌いということと関係するんでしょうか、やたらと中国語の希望者が増えてきました。中国語に文法がないというつもりはないんですが、どうも漢字とか語法とか、そういう面で学習しやすいということと結びついてるのか、あるいはむしろ今まであまりに独仏に偏りすぎていたものが、中国語や朝鮮語という、アジアに目を向けるようになってきたということか。そこらへんはどうでしょう。

信岡

昭和三〇年代、四〇年代の新制大学が増えたときのことを思いますと、やっぱりあのときはドイツ語をむやみやたらにやりすぎたんですね。今はまたその反動で、中国語が非常な勢いで増えてきている。それはたしかにアジアを見直す、隣の国の言葉ですから、それは大事だと思うんですけど、ただどういう心構えで中国語に入っているのか、学生の自覚を知りたい。横文字アレルギーが多分にあるんじゃないか。

福本

理工系の学生が、文系の学生に比べて中国語を取る率が高いんです。文学部だとドイツ語に少しずつ戻りつつある。動機は調べてないんですが、履修者の数だけで見ますと。

濱川

さっき福本さんがおっしゃった、学生の文法ぎらい、これは今までの文法書にも責任があると思うんです。文法書って本当につまらないですもの。(笑)もちろん文法書をやればためになる、知識になる。でも読んでも面白い文法書は少ない。あれがいけなかったと思うんですね、一つには。

新田

毎年、きわめて多くの文法教科書が出ますが、どれもたいてい、文法について考えたこともないような、素人同然の人が書いてるんですね。例文や文章は新しいかもしれませんけど、文法に関しては、自分が習ったときの学校文法そのままです。これは文法の記述が正しいかどうか以前の、モラルの問題ではないでしょうか。これでは文法に興味がもてないのは当然ですね。

濱川

ドイツ語の衰退に関していえば、ドイツ語教師、ドイツ語教科書・辞書の出版社も責任があると思うんですよ。易きについていった、つまり辞書を引かなくてもいいように、単語帳のついた教科書を出す。あるいは、単語帳みたいな辞書を出す。あんなのは、語学の実力の養成には何のプラスにもならないですよ。

それから話は飛びますけれど、利用者は、辞書は間違いのないものだと思っている。それに間違いがあるから困るんですね。編集委員会の席上で一つ披露した間違い、私が初版を見ていて見つけた間違いなどは、今出ているドイツ語の辞書が全部間違えていて、その源を調べたら、昭和一五年の木村・相良に溯るんです。やっぱり世間は辞書というものを信用してくれているのですから、ほんのちょっとの間違いもないように努力しなくてはいけません。

信岡

まあ、誰が見てもすぐわかるような、誤植に類する間違いは罪は軽いでしょうね。それよりも誤記とか誤訳、このほうが本当は怖い。その誤記、誤訳は、なかなかおいそれとは見つけにくいですからね。もう時間のようですので、最後に濱川先生に一言。

濱川

いや、さっきもちょっと申し上げましたけど、この辞書は非常にいいものになったと思っています。もちろん欠点はあるでしょうし、今後の改善の余地もあるでしょう。しかしこれは、みんなの力を結集した成果だと思っているんです。

いろんな辞書を見てみると、必ずしも改訂作業がうまくいっていないようですね。『クラウン独和』第2版はこれだけのものができたのですから、なんとかうまくこの活性を維持して、3版、4版とつないでいきたいと思っています。

 

(濱川祥枝 東京大学名誉教授)

(信岡資生 成城大学名誉教授)

(新田春夫 武蔵大学教授)

(福本義憲 東京都立大学教授)

(飯島一秦 早稲田大学助教授)

 

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