気づかぬ言葉 (「ぶっくれっと巻頭エッセイ」NO.129号 1998 MARCH) |
阿川佐和子 中学時代の友だちと久しぶりに食事をした。以前から薄々あやしいとは思っていたのだが、今回会ってみると、間違いない。注意したものか。それとも黙って見逃すか。迷った末、さりげなく口にした。 「ねえ、その喋り方、やめなさいよ」 すると友人は、何のことを言われているかわからないといった表情で、「え?」 「だからさ、そのハーフ・クエスチョン」 友人再び、「え?」 そうか、本人はまったく気づいていないのである。そこで私は彼女に、ハーフ・クエスチョンなるものの説明を始めた。 この名称が公式的なものかどうかは定かでない。以前、『この手のしゃべり方』について知人と論じているときに、「ああ、それ、ハーフ・クエスチョンって言うんだよ」と教えられ、以来そう呼んでいるだけだ。 たとえば、「大阪に出張した?とき、おいしい串揚げの店?に行ったの。そうしたら、そこのお店の人?が昔?、東京のあの店にいた人だった?。偶然?みたいな?……」と、つまりは、質問文にする必要のない場所で、名詞であろうと動詞であろうと頻繁に言葉を止め、その語尾を少し上げ、相手に確認するようなかたちで話を続ける話法である。あいまい表現の一つか、自信のなさの表れか、気になってしかたない。 ハーフ・クエスチョンについては前にも他のところで書いたことがあり、そのときは、「若者に限らず、年配者もときどき使っているのを見かける」と記した。が、その後の私的調査の結果、若者の口からはあまり聞かれない。むしろ、三、四十代以上の人たちの使用頻度が高いように思われる。さらに最近は、テレビのアナウンサーなど喋りのプロまでが、平然とした顔で使っているのだ。 「え? あたし、そんな喋り方してる?」 友人はムッとした様子である。 「してる、してる。気づいてないだけ。でも自分で気づくと、直るよ」 「ふうん」とにわかに言葉数が減り、まもなく機嫌を直して、「ま、そういうことを指摘してくれる友人って貴重だからね。ありがたいことですよ」 この友人、以前は『ら抜き言葉』が多かった。「これ、食べれる?」や「見れる」などを連発するので、会うたびに「やめろ」と文句を言い続けた。彼女は私を「うるさばあさん」呼ばわりしたあげく、しばらく後に、手紙を寄こしてきた。 「いつも言葉のご指摘ありがとうございます。でも先日、新聞に金田一春彦さんが『言葉は時代によって移り変わるもの。ら抜き言葉ももはや認めてよし』って書いていらっしゃいました。ご参考にと思い、切り抜きを同封します。ザマーミロ、うるさばあさん」 しかし、いくら金田一さんがお認めになっても私には承服しかねる。良い悪い以前に、居心地というか、聞き心地が悪いのである。 連載しているインタビュー記事のゲラが送られてくると、ときどき自分の言葉に愕然とすることがある。 「『○○ちゃった』、『ウッソー』、『とか』が多くて、受け応えが軽薄すぎるので訂正したい」 担当編集者氏に告げると、 「これ、全部、アガワさんの発言通りです」 「いや、使った覚えないぞ。作ったでしょ」 「いえ、使ってます、使ってます。気づいていないだけです。テープを聞き直しますか?」 私を「うるさばあさん」呼ばわりする友人のせせら笑いが聞こえるようで、悔しい。 (あがわ さわこ・エッセイスト)
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